『Ever Garden』のはなし(12曲目「描かれた空の下で待つ少女」

どうも。
浮月です。

『Ever Garden』の曲のコメントという名の言い訳…
いよいよ最後の曲になります。

◆12曲目「描かれた空の下で待つ少女」

―私は描かれたこの空の下で、今もあなたを待ち続けている―

『トリコロ』の没キャラ双観 伊鈴の物語を音楽に落とし込んだアルバム『Ever Garden』のエンディングです。
あるいはエピローグ的なものかもしれません。
元々「二人の存在の消失点」を一番最後に置くつもりはなくて、この後にエンディングをきちんと作らないと、と『Snow Drop』を作っていた時から考えていました。

この曲は二つの作品から生まれました。
一つはこの曲の原曲でもある「curtain」です。

この曲を使いたいと思う以前。つまりさてどうしようと考えていた時、実は全く別の叩き台の曲を作っていまして。
ただこれがビックリする位しっくりこない。
どうしてかなぁ、と頭の隅っこで考え続けていました。

そしてそれを打ち破ってくれたのがもう一つの作品で、名前を出して良いかわからないので「ある二つの同人誌」とします(お
ある時、好きなその同人誌がなんとなーく読みたくなったので読んでいると、
このなんというか救いと言うか優しさと、あとがきに書かれていた「未来を夢見るのは人間の特権」という言葉にガツンとやられまして。
あーそうか、と。

自分は『Ever Garden』のエンディングは「二人の存在の交差点」(敢えてこう書きますが)の続きみたいな風に考えていて、
『Snow Drop』後の自分は伊鈴の信条を「私はここに居る。一人でも、ここにいる」という様な
明確な力強さで行こうと思っていたのですがそれはどうも違うぞ、と。
考えようによっては結局、最初と何も変わらないんじゃないのかなぁ、と。
なんと言いますか、意地を張って、むしろ更に透明な壁は伊鈴の周りの世界を狭めているような。
そこには未来なんて見ちゃいない。力強さは感じるけれども、意思は感じるけれども、まるで逆行するかのような。
そうじゃない、と。自分はそこまで追い込むつもりはないし、伊鈴をそういう風に描きたいわけではない、と。

改めて最初の「モノクロームの空の下」から頭の中で、
時にはすぐに止めてしまいましたがノートにキーワードを書いてみて、流れを考えた際にふと浮かんだ音が「curtain」だったのです。

この曲について語ると非常に長いのですが、初めて聴いたのは『Groundbreaking2010』でした。
聴いた瞬間に頭を抱えるくらいに感動したのを覚えています。特にブレイク地点。
穏やかな優しさと悲しさと、そして陽が差し込むような愛しさ。
慈しみといってもいいかもしれないその雰囲気に僕は泣いた覚えがあります。
「curtain」の作者Modulation Spinの一人、eoll氏(江口孝宏氏)がBOF2010で書かれた曲コメント
「素直には喜べない穏やかな終焉」とありましたが、まさにそうで。
その優しくも悲しい、一片の終わりの風景に、先に読んだ同人誌の「未来を夢見る」エッセンスが組み合わさって、すとんとこの物語にはまるような気がしたのです。

浮かんでしまってはもうこれ以外に考えられなくなってしまったわけですが。
作るに当たってはとにかく怖かった。
なんせリミックスというかアレンジというか、人様の曲をはっきりと意識していじるのはこれが初めてで。
そしてなによりもその曲が、昔やっていたネットラジオでも流すくらいに、時折聞いては曲の雰囲気に癒されて、その風景に想いを馳せ、しばし涙を流す位、自分が大事にして愛してやまない曲なので、壊してしまうのではないかという恐怖が物凄くて。
しかも全くの素人がいじる。これはそもそも作曲者の方に失礼なんじゃないか、とか。

悩みつつもどうしてもという思いが勝り、まず筋を通さないととアレンジするに当たって許可の申し入れをした際、
そんな自分に対して、快く「curtain」のアレンジの許可を下さったModulation Spinの江口孝宏氏、takdrive氏には感謝の言葉もございません。

「素直には喜べない穏やかな終焉」を描いた「curtain」に
ある同人誌から受けた「それでも未来を夢見る」というフレーズと
実は同じ作者さんのもう一つ別の作品から受けた「それでも前に足を進める力強さ」を
そして伊鈴の想いという「僕個人の祈り」をありったけ込めました。

結果として限りなくノーマルエンドに近いバッドエンドで
思い切りバッドエンドに出来ない辺りに甘いなぁ、と思うのですがいいんです。
だって自分も見たいもの。伊鈴と『トリコロ』のキャラクターが一緒の世界にいるところ。
透明な壁なんか消えて、あるいはその消失点で、伊鈴が『トリコロ』の世界に認知され、迎え入れられるその瞬間を。

この曲は、双観 伊鈴という少女の「成長」であり「夢見る未来」であり「差し伸べられた手」であり「伊鈴という存在」です。
遠い追憶のようなピアノの音色と、今までの自分が映し出されているかのようにカタカタ動く映写機。
それが消された瞬間に始まる伊鈴のエンディング。

話は少しそれますが、このアルバムにおいてピアノの役割というのは伊鈴と言えばいいのでしょうか。
彼女の心情を表現するようなポジションにいます。伊鈴の分身的なものでしょうか。

序盤のピアノの音色は諦観していた伊鈴を。コードの伊鈴は想いにふける伊鈴を…。
そしてこの曲で初めて、ピアノが「夢で見たあの世界」のようなフルートやストリングスの世界とほんの少しですが絡みます。
(「紫陽花の色が変わるとき」はオケ的なパートでピアノは弾かれていません)
ちなみに前にも言いましたが、「夢で見たあの世界」のような音色は『トリコロ』の原作をイメージしています。
つまり、この曲で伊鈴は初めて、『トリコロ』の世界と交わるのです。

トリコロの世界のような音色と共に最初はフルートの音色と、それこそあの雨の日に瞳が合った多汰美と共に歩むように同じメロディを紡ぎ、
半歩先を進むように違うメロディを奏でた後、「先に行ってるね」というように他の音たちと共に消えていってしまいます。
それはまるで夢を見ていたのかのようなひと時。
確かに一瞬で終わってしまい、それが現実かどうかも分からない。

でも、そこに居る伊鈴は、最初のピアノの音色とは明らかに違うように「未来を夢見て」、意思を持って選択したのです。
モノクロームとも明言されていない「描かれた空の下で待つ」という選択を。
結局の所このアルバムに込めたメッセージは『Snow Drop』とは変わっていなくて
「双観 伊鈴という存在は”あなた”を待っている」ということであって。

待つという選択は消極的なのかもしれません。受動的なのかもしれません。
でも、諦めるよりも、呆然とただ過ごすよりもずっとずっとそれは確かなもので。
そして下手をすればそれはとても難しいことではないでしょうか。

同時に最後はあえて明言しませんでしたが、「何色の」空かは描いていません。
あくまでも「描かれた」空。です。

さて、この曲を聞き終わった時、あなたの心が描いた空は一体どんな空でしたでしょうか。
伊鈴はどのように描かれていましたか?

この曲を聞いて、今も待ち続けている双観伊鈴に会い、
あなたの記憶に再び留めて置いていただけたのならば、これ以上ない幸いです。

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