何故自転車なのか

久しぶりの街
浮月です。
学校の後期が始まる。
久しぶりに水道橋に降りたがまた色々と変わっていた。
新しい建造物は形を作っていたし、何だか雰囲気すら変わってしまったように思える。
やっぱり都会は流れが速い。車も、人も、風景も。
学校に着いて相変わらずの授業を受けながら、課題を出したりダチと話したり。
自転車旅行で相談に乗った友人とも久しぶりの再会な訳だ。
色々と反省点が多かったけれども良かった、箱根はやっぱり辛かった。そんなことを話す。
そして最終的な目標は、広島であることも言う。
広島に行って何をするのかは判らない。やることと言えば彼のお墓の前で手を合わせることくらいだろう。
それだけなのに何故自転車で向かうのかという問いが生まれる。
それは恐らく、今回の自転車の旅に関する問いと似ている。
何故自転車で向かうのか?
今回においては、自分の最終的な目標を知る人間にしろ、知らない人間にしろ多くの人から問われた。
だけれども、この問いに自分はいまだ明確な答えを出すことが出来ない。
単なる自己満足なのか。達成したという事実を美談としたいだけなのか。よく判らない。
ただ少なくとも言えることは、今回の旅に関しては飛行機とか新幹線とか電車とか夜行バスとか、ましてや乗れやしない自動車で行くことは考えられなかったということだ。
それは、言い換えれば、自分の気持ちを他者や機械によって運ばれることが嫌だったからと言うことなのかはよく判らない。
ただ、自転車という乗り物は造り手が他者ではあるがそれを動かすのは自分自身であって、ペダルを漕ぎ続けなければ進まない上に、坂道では戻ってしまう乗り物だということは間違いないと思っている。
それが何だと言われてしまえばそれまでなんだけれども。
例え500キロ走っても、「あ、そ」とか「ふーん」で終わってしまう可能性だって孕んでいるというのに。
自転車で進んでいてネガティブな考えがぐるぐると回る時があった。
特に顕著だったのが三島⇒浜松の夕方辺りからだ。
頭の中で考えることが無くなってしまって「?」という問いが乱発する。
何故漕いでるのか? 漕ぐことに意味はあるのか? 進んだ先に何が待つのか? 何も待ってはいないんじゃないか? むしろ先にあるのは絶望なんじゃないのか? ならばもう漕がなくてもいいんじゃないのか?
肩や首は痛み、股は擦れて何だか尻が痛くて、それでも走るのは何故なのか?
それは最終目的と直結する。
ひとえにそれがあるからだ。
だけれども、それなら何故自転車なんだと問いが出る。
論理的思考をこよなく嫌う自分にとっては何だか延々に続きそうな循環。
気が付くと浜松に着いていた。
そういうものなんだと思う。
何故自転車なのかという問いは、今後更に沢山の地を走れば見つかるのかもしれない。
その時が来て、きちんと説明できる時がくることを祈って止まない。

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