カンニング竹山の相方の死が妙に心に残ってる。妹の誕生日と重なったためだろうか。
俺はそんなに人の死という実感が無く育ったから、普段だと惜しい人を亡くした。程度の印象が実は強かったりする。
第一俺はそんなに長く生きてはいないから、○○(亡くなった方がやっておられた役名)が…ご冥福をお祈りします……。と言われてもリアルタイムで見ていた人間でもないから今一つ実感が無い。
母方の曾祖母が亡くなった時も、俺がちいせぇガキの頃だったからそんなに記憶に無くて、物心…と言うか、ある程度色々なことを考えるようになってから初めて体験した身近な人の死と言えば、名無し猫氏が初めてのような気がする。
彼の死を知った時、このブログでも書いたと思うが、なんとも言えない気持ちになって、思い切り涙が流れて、ああ、これが人が死ぬときの悲しさなのかと始めて理解したんだと思う。
確か名無し猫氏は東京へ向かう途中だったような気がする。本格的に東京に向かうのは初めてだったような気がする。
彼にとって、この先待っている出来事はとても貴重な一時になるであろうことは違いなかっただろう。
だからこそ、ああ、死んだらそこで何もかもが終わってしまうんだ。彼が死のうと世界は回るが、彼はそこで終わってしまう。全てが。そういった、救いようの無い悲しみも学んだと思う。
彼を思い出すと彼と付き合っていた彼女さんのことも思い出す。生前に別れた。という話を聞いたが、彼女は彼の死を知っているのだろうか。
そう言えば、俺が高1だか高2の春休みを利用した旅行で彼の家に泊まらせてもらったが、あの時の部屋が焦げ臭かったことをはっきりと覚えてる。彼女さんが俺のために作ってくれた(と少なくとも当時の俺は思っていた)カレーかおでんを焦がして(焦がしたんだからカレーの可能性が高いのだが)その匂いがこびり付いたと彼から聞いた。あの時の悔しさもはっきりと覚えてると同時に、ごめんごめん。と笑いながら言っていた猫氏を覚えている。だが、彼の顔がはっきりと思い浮かべることが出来ない。
人の死で恐ろしいのはその人のことを忘れてしまうことなんだろう。死ぬことも恐ろしいが、忘れられることほど恐ろしいものは無いと思う。そして、忘れてしまっていると実感したときの己も、また恐ろしいと感じる。
話を戻そう。カンニング竹山の相方の死はたぶん、なんだかんだ言って自分が興味を持っていた人物の初めての死なのかもしれない。
言ってみれば自分にとっての「○○が…。ご冥福を――。」と言える人なのかもしれない。
だからなのかもしれない。こうも、妙に心に残るのは。
本当に、ご冥福をお祈りいたします。